
この記事のまとめ
| 項目 | 今回の考察 |
|---|---|
| 『机さする』は何を歌った曲か | 過去と未来をつなぎ直し、最後に何気ない「今」へ戻ってくる曲ではないか |
| 「書く・撮る」の意味 | 忘れてしまうかもしれない過去を、記録として残す |
| 「約束」の意味 | まだ存在しない未来へ、今からつながりを作る |
| なぜ最後に「机をさする」のか | 過去や未来から視線を戻し、目の前にある現在を感じる行為として読める |
| 解釈上の注意 | 「おやすみ」以降を夢と読む部分など、別の解釈ができる箇所もある |
『机さする』の歌詞を順番に見ていくと、何気ない日常から始まり、「書く・撮る」という記録、「いつか」をめぐる約束を経て、最後に「今、机をさする」へたどり着きます。
この記事では、この流れを、記録によって過去とのつながりを残し、約束によって未来とのつながりを作ったうえで、最後に目の前の「今」へ戻ってくる構造ではないかと考えます。
「おやすみ」以降を夢やまどろみの場面と捉える部分などには別の解釈も残ります。それでも、失われていく過去、まだ存在しない未来、そして今ここにある日常という時間の流れは、歌詞全体を比較的一貫して説明できます。
だからこそ、曲の最後に置かれるのは壮大な出来事ではなく、「机をさする」という何気ない行為なのではないか。この記事では、その理由を『ちいかわ』本編の描写とも重ねながら考えていきます。
なぜ、最後に「机をさする」のか
映画『ちいかわ 人魚の島のひみつ』のエンディング曲『机さする』。
この曲で最後に描かれるのは、大きな出来事でも、劇的な感情でもありません。
「今、机をさする」
ただ、それだけの何気ない瞬間です。
しかし、ナガノ先生自身が作詞したこの曲に、なぜ「机さする」という一見すると不思議なタイトルが付けられているのでしょうか。
そしてそれらを『ちいかわ』という作品がこれまで描いてきたものと重ねると、「机をさする」という何気ない行為にも、一つの意味が見えてきます。
この記事では、まず確認できる事実と作品全体のテーマを整理したうえで、歌詞の構造から『机さする』が何を歌った曲なのかを考えていきます。
①問い│『机さする』は何を歌った曲なのか
この記事で中心に考えたいのは、次の二つです。
・『机さする』は、何をテーマにした曲なのか。
そして、
・なぜ最後に「今、机をさする」と歌われ、それが曲のタイトルになっているのか。
この二つを、この記事の主な問いとします。
加えて、歌詞の中でも印象的な、
「たとえば鳥 あるいはねこ〜」という一節は、曲全体の流れの中でどのような役割を持っているのか。
という点についても、考えていきます。
まずはこれらを考えるために、『ちいかわ』という作品について確認できることと、『机さする』の歌詞に実際に描かれていることを整理します。
②事実│まず確認できること
『机さする』の意味を考える前に、まず今回の考察の材料となる事実を整理します。
『ちいかわ』について確認できること
公式展覧会「ナガノ展」の第1章「ちいかわと仲間たち」では、『ちいかわ』について次のように説明されています。
「彼らを取り巻く世界は残酷なのかもしれない。」
その一方で、ちいかわたちは仲間と目の前の困難を乗り越え、
「その先にある小さな幸せにたどりつく」
とされています。

この文章には「初代くま担」という署名があります。「初代くま担」は、『ちいかわ』の初代担当編集者さんです。つまり、ナガノ先生自身の言葉ではありません。
ただし、作品に近い立場にいた初代担当編集者による説明であり、さらに個人的な評論ではなく、公式展覧会「ナガノ展」の第1章という重要な展示に掲げられた文章です。
ナガノ先生本人がどこまで監修した文章なのかは確認できませんが、少なくとも公式側から提示された『ちいかわ』の作品観として、重要な資料と考えられます。
『机さする』について確認できること
映画のエンディングテーマ『机さする』は、ナガノ先生自身が作詞した楽曲です。作曲はトクマルシューゴさん、歌唱はちいかわ役の青木遥さんが担当しています。

歌詞を順番に見ていくと、まず冒頭では、外を眺めるなどの何気ない日常の情景が描かれています。
続いて「たとえば鳥」「あるいはねこ」といった、それまでとは少し異なる描写へ移ります。
さらにその後、
- 「覚えていても」「忘れそう」といった記憶に関する表現
- 「書く」「撮る」という行為
- 「いつか」花瓶を買うこと
- 「いつか」ある場所へ行くこと
- それらを「約束」すること
が続きます。
そして曲の最後には、明確に「今」という言葉が置かれ、「机をさする」という何気ない行為で終わります。つまり、歌詞には単にさまざまなモチーフが登場するだけではなく、
何気ない日常 → 鳥やねこを含む描写 → 記憶と記録 → 約束 → 「今、机をさする」
という順序があります。
ここまでは、作品の公式な説明と、歌詞から直接確認できる事実として整理できます。
では、この歌詞の流れにはどのような意味があるのでしょうか。次に、考えるべき論点を整理します。
③論点│この曲で考えたい3つのこと
ここまで確認した事実をもとに、『机さする』を考えるうえで、特に気になる点を3つに整理します。
① なぜ、何気ない日常から曲が始まるのか
曲の冒頭で描かれるのは、大きな出来事ではなく、ごく何気ない日常の情景です。
映画のエンディング曲でありながら、最初から強い感情や特別な出来事が提示されるわけではありません。
なぜ、この曲はまず何気ない時間を描くところから始まるのでしょうか。
② なぜ、「おやすみ」を境に歌詞の雰囲気が変わるのか
冒頭の日常的な描写のあと、「おやすみ」という言葉が置かれます。
そこから、「たとえば鳥」「あるいはねこ」といった、それまでとは少し性質の異なる表現が登場します。
なぜ、「おやすみ」を境にこのような変化が起きるのでしょうか。
③ なぜ、最後に「今、机をさする」へたどり着くのか
その後、歌詞には「書く」「撮る」「花瓶を買う」「あの場所へ行く」「約束する」といった、さまざまな行為が続きます。
そして最後に、明確に「今」という言葉が置かれ、「机をさする」という何気ない行為で曲は終わります。
なぜ、さまざまな描写を経た最後に「今」が置かれるのでしょうか。
この3つを一つの流れとして説明できれば、『机さする』が何を歌った曲なのかも、よりはっきり見えてくるはずです。次に、歌詞全体の流れを説明できる一つの仮説を立てます。
④仮説│「過去・今・未来」をつなぐ曲ではないか
ここまでの歌詞を一つの流れとして捉えると、『机さする』は、
何気ない現実から眠りに入り、夢の中で現実の輪郭が曖昧になったあと、「記録」と「約束」によって自分の時間をつなぎ直し、最後にもう一度「今ここ」に戻ってくる曲
なのではないかと考えられます。
大きく分けると、次のような流れです。
何気ない現在
→「おやすみ」
→ 夢・まどろみの中で現実が曖昧になる
→ 記録によって過去を残す
→ 約束によって未来をつなぐ
→ 目の前の「今」に戻る
順番に見ていきます。
冒頭──まだ意識されていない、何気ない「今」
曲の冒頭で描かれるのは、大きな出来事ではありません。
外を見ることをはじめ、ごく何気ない時間が流れていきます。
ただそこにある、普段なら意識せず過ぎていくような現在。『机さする』は、まずそんな何気ない「今」から始まります。
そして「おやすみ」を境に、歌詞の雰囲気が変化します。
「おやすみ」以降──夢の中で、現実の輪郭が曖昧になる
ここからは、歌詞から導く仮説です。
「おやすみ」のあとには、「たとえば鳥」「あるいはねこ」と、それまでとは少し異なる描写が続きます。
自分自身の視点が固定されず、鳥かもしれない、ねこかもしれないという、現実では捉えにくい曖昧な感覚です。
さらに、この場面の2番の歌詞には「明日はたぶん 起きたとき」という、これから目覚めることを想起させる表現もあります。
「おやすみ」という言葉だけであれば、単に眠る前の場面とも考えられます。
しかし、
「おやすみ」
→ 鳥やねこへと視点が揺らぐ
→ 「起きたとき」と目覚めを意識する
という流れまで合わせると、この部分を夢やまどろみの中の場面として読むことには一定の根拠があります。
ここで重要なのは、歌詞に「夢」と明示されているわけではないことです。眠りの中で、現実や自分自身の輪郭が一度曖昧になっているように捉えることも可能ではないか、という仮説です。
「覚えてても」──曖昧になるものを、記録によって残す
その後、歌詞は「覚えていること」と「忘れてしまうこと」へ向かいます。
今は確かに覚えている。しかし、その記憶もいつか曖昧になってしまうかもしれない。
だから、「書く」「撮る」。
ここでの記録は、曖昧になり、やがて失われていく経験を、現実に残しておく行為と考えられます。
この「大切な時間を記録として残す」というモチーフは、『ちいかわ』本編にも見られます。
ちいかわが憧れのむちゃうマンと撮った写真は、その後も大切な「宝物」として残ります。
その瞬間自体は過ぎ去っても、写真として残すことで、あとからその出来事を振り返ることができます。
さらに、同じ映画のオープニング曲『くつずれ』でも、曖昧になった昨日の出来事を、撮っていた写真から振り返る場面が描かれています。
昨日晴れだったっけ
雨じゃなかったような
写真撮って見返すと なんか すごく
良さそなもの食べてるね
本編と映画の別楽曲でも、
過ぎていく時間を記録し、あとから確かめる
という行為が描かれているわけです。
そう考えると、『机さする』の「書く」「撮る」も、
記録によって、失われていく過去を現実につなぎ止める行為
として読むことができます。
「約束」──まだ存在しない未来にも、つながりを残す
続いて、歌詞の視線は未来へ向かいます。
花瓶を買うこと。
あの場所へ行くこと。
どちらも、まだ起きていない出来事です。
そして、それらは「約束」として残されます。
過去は、記録することで残すことができます。しかし未来は、まだ存在していません。
だから、
「いつかこうしよう」と約束することで、今から未来へ一本のつながりを作る。
この「約束によって大切なものを未来へつなぐ」という描写も、『ちいかわ』本編と重なります。
本編では、ちいかわ・ハチワレ・うさぎの3人が、これからも友達でいることを約束する場面があります。
現在の友情を、その瞬間だけで終わらせず、これから先にも続けようとする約束です。
また、セイレーン編の最後では、島を離れるハチワレが、ヒトハとフタバに「またね」と言いたかったことを口にします。
こちらは実際に交わされた約束ではありません。
それでも「またね」には、別れをそこで終わらせず、もう一度会う未来を残したいという気持ちがあります。
つまり、
記録が過去とのつながりを残すものなら、約束は未来とのつながりを作るもの。
二つは反対の時間へ向かいながら、どちらも「今」と別の時間をつなぐ行為として読むことができます。
最後──目の前の現実に触れ、「今」に戻る
そして最後に、歌詞は明確に「今」へ戻ります。
過去には、記録によって残したい時間がある。
未来には、約束によってつなぎたい時間がある。
その両方を経た最後に描かれるのが、
「今、机をさする」
という、ごく何気ない行為です。
ここで「机をさする」という行為が選ばれていることも重要です。
夢や記憶、未来への約束はいずれも、目の前に存在するものではありません。それに対して、机は今そこにあり、実際に触れることができます。
そう考えると、「机をさする」は単に何気ない日常を味わうだけではなく、曖昧な夢や記憶から抜け出し、目の前にある現実へ触れて「今ここ」を確かめる行為とも読むことができます。
曲の冒頭でも、何気ない現在が描かれていました。
しかし、最初と最後では、その「今」の意味が少し違うのではないでしょうか。
最初は、ただ当たり前に流れていた日常。
一度その現実が曖昧になり、忘れてしまう可能性を意識し、過去を記録し、未来に約束を置いたあとで戻ってくる日常。
だから最後には、机をさするほどの何気ない瞬間そのものを、静かに味わうことができる。
公式展覧会「ナガノ展」で示された「その先にある小さな幸せ」という『ちいかわ』の作品観を重ねるなら、ここにもつながりが見えてきます。
特別なことが起きているから幸せなのではない。
失われる過去と、まだ存在しない未来を意識するからこそ、目の前にある何気ない現在が大切なものとして見えてくる。
『机さする』は、現実をつなぎ直して「今」に帰る曲
以上をまとめると、この曲には次のような流れがあるのではないでしょうか。
何気ない現在
↓
眠りの中で現実が曖昧になる
↓
記録によって過去を残す
↓
約束によって未来をつなぐ
↓
目の前の現実に触れ、今を味わう
つまり、『机さする』は単に「過去・今・未来」を並べた曲ではありません。
曖昧になり、失われていく現実を「記録」と「約束」によってつなぎ直し、最後に何気ない「今」をかみしめる曲なのではないか。
そして、その最後にある最も具体的で何気ない行為が「机をさする」だからこそ、この曲には『机さする』というタイトルが付けられているのではないでしょうか。
⑤反証│別の読み方はできないか
ここまで、『机さする』を、
何気ない現実 → 眠りの中で現実が曖昧になる → 記録によって過去を残す → 約束によって未来をつなぐ → 目の前の「今」に戻る
という流れで読み解いてきました。
ただし、これはあくまで歌詞から導いた一つの仮説です。
別の読み方ができないか、特に重要な点を検討します。
① 「おやすみ」以降は、本当に夢なのか
今回の仮説の中で、最も確度が低いのがこの部分です。
「おやすみ」のあとに「たとえば鳥」「あるいはねこ」といった、それまでとは異なる描写が現れ、さらに「明日はたぶん 起きたとき」と続く。
この流れから、眠りや夢の中の場面と読むことには一定の根拠があります。一方で、「夢」という言葉そのものは歌詞に登場しません。
「おやすみ」は誰かへの挨拶とも考えられますし、「起きたとき」も、まだ眠っていない状態から明日の朝を想像しているだけかもしれません。
そのため、「おやすみ」以降は夢であると断定することはできません。
ただ、少なくとも「おやすみ」を境に描写の性質が変わり、「起きたとき」という言葉まで登場することから、眠りやまどろみを意識した場面である可能性はあると考えます。
② 「記録=過去」「約束=未来」は読み込みすぎではないか
「書く」「撮る」は、必ずしも過去を残すためだけの行為ではありません。
同様に、「約束」も必ずしも未来というテーマを象徴しているとは限りません。
しかし、『机さする』では「忘れそう」という感覚のあとに「書く」「撮る」が置かれています。
そのため、少なくとも記録については、失われていくものを残そうとする行為として読むのが自然です。
また、花瓶を買うことや、あの場所へ行くことは、まだ起きていない「いつか」の出来事として語られ、それが「約束」と結びついています。
この二つを並べると、
失われていくものを残す記録と、
これから起こることにつながりを作る約束
という時間方向の違いは、歌詞そのものからある程度読み取ることができます。
「過去と未来」という言葉自体は解釈ですが、その対比には一定の根拠があると考えます。
③ 「机をさする」は、本当に“今ここ”へ戻る行為なのか
ここも別の解釈が可能です。机をさするという行為は、単なる日常の情景かもしれません。
あるいは、思い出のある机に触れている、落ち着くための仕草である、といった読み方もできます。
そのため、
机をさする=現実を確認する行為
とまで断定すると、やや強い解釈になります。一方で、曲の最後には明確に「今」という言葉が置かれています。
さらに、それまでに記憶や未来への約束といった、目の前には存在しないものが描かれたあとで、最後に「机をさする」という具体的な行為が置かれています。
そのため、
過去や未来から視線を戻し、目の前の現在を感じる場面
と読むことには一定の説明力があると考えます。
「机に触れることで現実を確かめている」とまで言うのは仮説ですが、最後に現在へ戻っているという読み自体は比較的強いと考えます。
④ 「花瓶」や「あの場所」は、特定のエピソードを指しているのか
「あの花瓶」から『褒められリボン』のエピソードを連想したり、「あの場所」から映画の島を連想したりすることもできます。
映画のエンディング曲である以上、そうした連想を意図している可能性はあります。
ただし、歌詞だけから特定のエピソードを指していると断定することはできません。
そして今回の仮説では、必ずしもそれを特定する必要もありません。
重要なのは、
花瓶を買うことも、あの場所へ行くことも、「いつか」実現する未来の出来事として置かれている
という点です。
そのため、具体的に何を指しているかについては複数の解釈を残したままでも、今回の時間構造に関する仮説は成立します。
仮説の中にも、確度の差がある
以上を踏まえると、今回の考察すべてを同じ確度で扱うべきではありません。特に、
「おやすみ」以降=夢
という部分は比較的仮説性が高い。一方で、
忘れそうなものを「書く・撮る」こと、まだ起きていないことを「約束」すること、そして最後に「今」が置かれること
は、歌詞から直接確認できる構造です。そのため、夢の解釈が違っていたとしても、
記録によって過去とのつながりを残し、約束によって未来とのつながりを作り、最後に「今」へ戻る
という曲の中心的な読みまで崩れるわけではありません。
個々のモチーフには別解を残しつつ、それでも歌詞全体を最も一貫して説明できるものは何か。
最後に、ここまでの検討を踏まえて結論を整理します。
⑥結論│『机さする』が最後に残すもの
『机さする』は、
何気ない現在から眠りへ入り、曖昧になった現実を「記録」と「約束」によってつなぎ直し、最後に目の前の「今」へ戻ってくる曲
なのではないでしょうか。
「おやすみ」以降を夢と読む部分など、個別のモチーフには別解も残ります。
それでも、
記録によって過去を残し、約束によって未来をつなぎ、その両方を抱えながら何気ない「今」をかみしめる
という読みは、歌詞全体を比較的一貫して説明できます。
だからこそ、曲の最後に置かれるのは壮大な出来事ではなく、
「今、机をさする」
という、ごく何気ない瞬間なのだと思います。
超長文を最後までお読みいただき、ありがとうございましたm(__)m
今回の考察は、現時点で最も一貫していると考えた一つの解釈です。
別の読み方や反論、補強できそうな描写などがあれば、ぜひ意見や感想をお寄せください。


